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過去の日記を思い出しつつ綴ります。

白拍子
白拍子
小松市中海町に「仏御前の墓」が仏御前家屋屋敷跡と伝えられる場所にある。
「平家物語」「源平盛衰記」謡曲「仏ノ原」に登場します。
「平家物語」一巻 伎王
白拍子・伎王は清盛に籠愛され、結構な暮らしをしていて3年ばかり過ぎた頃、
加賀国生まれでまだ16歳のうら若い乙女が清盛邸にやってきた。
最初清盛は怒ったが、舞と優雅な姿態に魅せられて、清盛のとりこに
なってしまった。やがて伎王は嵯峨野に籠った。それからしばらく春も
過ぎ、夏も去り、初秋の風が吹き始める頃、仏御前が尋ねてきた。
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静御前
「静御前」の名前が急速に話題にのぼりはじめ「静御前堂」のある
郡山市の通称郡女通りは静御前通りとなってしまった。
余り世間には知れ渡って居なかった「静御前」とは、名前が史上に出て
くるのは、寿永元年(1182)この年は百余日の大旱魃であった。
後白河法皇は神泉苑に百人の白拍子を集め雨乞いの舞いを龍神に捧げた。
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腰越状
腰越状
寿永3年2月7日の早暁、一ノ谷の合戦で勝利し、平家軍を四国屋島に
敗走させて、京都に凱旋したのは2月9日と年表には載っているが、
当時2日で四国から京都に戻るとは信じがたいが、そう言うことで
都の人々は若き英雄を歓迎した。
後白河法皇は籠愛していた白拍子「静御前」を側室とするように心配りした。
やがて「静御前」は六条堀川の源氏の館に住み始めた。
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義経その後
義経は鎌倉には入れず6月23日都に戻った。
優しく迎えたのは静御前だけだったと思われる。
それから4ヶ月も過ぎようとした頃頼朝の命令で土佐坊昌俊が
義経暗殺に堀川へ来たが、静御前の采配により難を逃れ、
土佐坊は10月26日六条河原で処刑された。
義経は九州での再起を目指し、大物浦(だいもんのうら)
(兵庫県尼崎市)から「月丸」で四国に渡る予定が突然の
暴風雨にあおられ、帆柱折られ進めずやむなく諦め大物浦に戻った。
静御前以下10数人の側近を従えて天王寺~吉野山に逃れた。
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